鰹節の話  その5 鰹節の生成方法の変遷

ここでは少し鰹節の歴史の話をします。こまかい話をしても仕方ないので、鰹節は古代から存在する食べ物であること、江戸時代の中期以降にカビ付けが始まったこと、現在のような本枯節は明治期になって製造され始めた(以外に本枯節の歴史は浅いようです)ことなどを話します。

鰹節が歴史に文字として最初に登場するのは「古事記」です。「堅魚(かたうお)」の名で登場します。堅魚は鰹を細かく切り天日で干したものだったうようです。飛鳥時代の「大宝律令」や平安時代の「延喜式」には「堅魚」、「煮堅魚(にかたうお)」、「煮堅魚(にかたうお)」、「堅魚煎汁(かたうおいろり」の名前で献上品リストに登場します。「煮堅魚(にかたうお)」は鰹を煮て天日で干したもの、「堅魚煎汁(かたうおいろり」は鰹を煮た汁を煮つめたものだったようです。ですから、大昔の鰹節は生切り、煮熟の後、天日で干して製造していたようです。

言葉として「鰹節」や「花かつお」が文献に登場するのは戦国時代です。この頃の鰹節は煮熟してから焙乾されて出来上がった荒節だったようです。

江戸時代になると荒節の表面に付着しているタール分が削り取られて出荷されるようになりました。つまり、江戸前期の鰹節は裸節だったのです。

元禄期にはカビ付けの技法が考案され、いわゆる「枯節」が流通し始めました。しかしこの頃のカビ付けは、輸送中に悪いカビがつかないように、なされていましたので、2番カビ程度の鰹節だったようです(いわゆる本枯節ではありません)。

では現在のような本枯節はいつからかと申しますと、明治期になってからです。明治も後期になって流通する仕上節は本枯節になったようです。

広告的に「古式製法を守り」とか「伝統の味を守りとか」の謳い文句が良くあります(弊店もやっているんで偉そうなことは言えないのですが)。でも、鰹節の場合、古式製法は江戸前期の裸節なのか江戸後期から明治後期までの2番かび程度の節をさすのか、はたまた明治後期以降の本枯節を指すのか、どれなんでしょう?現在の関東地区の蕎麦屋は本枯節を使うのですが、明治期までの蕎麦屋は本枯節なんて使っていないはずです。

鰹節には荒節から本枯節まであるのですが、それぞれに鰹節としての最終製品だった時代がありました。用途や好みによって適切な鰹節があるはずです。だしオフではその辺のところの飲み比べもするつもりです。

   

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